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2011年3月

2011年3月31日 (木)

夢に出る その2

当たり前のようなことだけど、地震以降、毎日ではないけど、夢にその影響が出てるなあ、と思う夢を見る。

今朝方に見ていたのは、何故かバスで山道を上っている夢。
突然、山の少し向こうで爆発が起こり灰色の煙が上がり出す。
慌ててバスを降りる。
なぜかみんなで自転車に乗り換える。
でも、斜面が急すぎて自転車が滑り落ちそうなので、山のとがったおうとつ部分に自転車を引っかける形でとりあえず停止して息をのんでいる。
その行動を指揮しているのは、これまたなぜか江口洋介。

私、別にファンという訳じゃないんだけど、たぶん映画「GOEMON」がビジュアル的に強烈に脳裏に焼き付いたんじゃないかと思う。

私なりに分析してみると。
山にのぼる → 津波から逃げたい心理。
爆発 → 原発の爆発のイメージ。
江口洋介 → 「正義のヒーロー」を求める心理、かな。

数日前も、イメージだけだけど、なぜか東北にいる自分が夢に出た。
不安で緊張していた。

それに、前回も書いたけど、死んだ母と姉の夢を見たのは、被災して亡くなった人々の事が頭にあるから。

「ちちんぷいぷい」で、西靖くん(妹と同世代)も言ってたけど、今は自分も含めて沢山の人が平常時の精神状態ではないんやと少し意識を持っておきたいと思う。

もし心が苦しいと感じたら、誰か話を聞いてくれそうな人を見つけてください。
心が弱りすぎている時は、話をすること自体もツライと感じると思いますが、少しでも出来そうなタイミングが来たら小出しに気持ちをどこかに出してください。

私自身が姉の死後、どん底の精神状態から少しずつ這い上がっているところで、私自身の課題なのです。

2011年3月27日 (日)

夢に出る

一昨日の夢に、今は亡き母と姉が出演していた。
母は怪我もしておらず姉も闘病前の全く普通の様子で、私たち家族が4人で暮らしていた教職員住宅にいた。
私は夢の中で一瞬ちょっとそのことに驚いたんだけど、それを何も言葉にせず、嬉しい事態を受け入れ、普通に姉に何かを話しかけた。とても短い、ストーリーもない、イメージだけという感じの夢だった。

目が覚めると、しばらく「あぁ、夢やったんかぁ・・・」と朦朧とした頭でため息をつく。
よくあんな昔の(25年以上前の)家の中の風景を覚えてるよなぁ。
それにすごく自然だった。
パラレルワールドだ。
母があの夜、あの道を渡らなければ、私の人生は今とは全く違ったものだったはずだ。
その結果、姉だって病気にならなかったかもしれない。
打ち消しても打ち消しても浮かぶ、もう1つの世界。
それは私の心の中にだけ存在する。

2011年3月22日 (火)

地震から10日、思うことのまとめ

地震から10日を過ぎたけど、その爪痕は深すぎて、まだ現在進行形だ。
私の中で、いろんな思いが渦巻いている。

亡くなった方、被災された方達のことを思うと胸がつぶれそう。
1人1人に人生があり、大切なモノを守り、明日を夢見て、いっしょうけんめい生きてきただろう。
それが急にいろんなモノをあっという間に奪われるという残酷さ。

私は中学生の時に母が交通事故で寝たきりになり、離婚していた父親の元に引越して転校しなければならず、母親との生活・住み慣れた家や町や大切な友達と遠く離れなくてはいけなかった。事故から1年4ヶ月後に母は他界した。
今思えば、私はその頃長い間、鬱症状に悩まされていた。
当時は「鬱」というようなことを全く知らず、「とてもつらい」としか思わなかった。
睡眠障害、過食、無気力、体調不良、集中力低下などいろんなことが起こった。
そういう記憶が蘇って、今、ダブルの悲しみを感じる。
でも、今回の地震で一度に複数の家族や友人を失った人も多いだろう。
そのような事態は想像を絶する。
今は「心のケア」チームというような人たちが被災地に派遣されているというニュースを見て、心理的に助けになる人がいることは素晴らしいと思う。
そう言う意味では隔世の感がある。
私が高校生の時にスクールカウンセラーなんて言葉もなかった。

また、今回の災害から思うこと。
とにかく被災した人数の規模が大きい。
津波の被害が想像を絶するものだった。
原発事故による放射線の心配。
停電による影響。
長期化している避難生活。またしても弱者が一番深刻な影響を受ける。

私は大阪に住んでいて、日常生活を送れているけど、もし自分だったらと想像するだけで思考停止に陥りかねない。あれやこれやが複合的にいっぺんに起こりすぎ。

だけど、現場で命懸けで、力の限り、支援・復興にあたっている人たちがいる。
そして、ネット上のブログやTwitterやFacebookというメディアで、現場の人たちの様子が見られたり伝えられたりするということの意味が大きいと思う。
もちろんテレビの映像でも。

また、自治体や企業などが日々取り組んでいる内容も直接入ってくる。
そして一般人からもアイデアや情報が投げかけられている。
この、リアルタイムで関わっていけるという利点は大きい。

この大災害で、私たちは、とても大切なことを学び直しているような気がする。
人と人がつながること。
つながりの輪が広がること。
言葉や音楽やアートで勇気をもらえること。
一方でデマやよろしくない口調の誹謗中傷がとびかって、それをいかに「流す」か、という心の訓練もしておかなくちゃいけないことが分かってきた。

とりあえずここまで、書けることは書いてみた。
そろそろ幼稚園に息子を迎えに行かなきゃ。
いろんな思いが渦巻く中も、日々、掃除・洗濯・食事の支度・子どもの世話。
バランスを取らなくちゃ。

追記: 「うつをこえて」ホームページのリンク

2011年3月15日 (火)

こんな時に

えらいことになっている。
金曜日の地震発生から丸4日、被害の実態が明らかになりつつ、原発の心配も去らず。

私の個人的なことを書く。
Twitter上で、この緊急時に有意義じゃない内容は控えよ的なムードが漂っていて、フォロワー少ない私でも考えてしまう。本来、個人的なつぶやきを書けるメディアなのになぁ。
ショックや悲しい気持ちを1人で閉じ込めていることが苦しくなるし、何か出来ないのだろうかという気持ちも起こりいろいろと考えもする。でも、被災した人の大変さを思えば、自分の気持ちの持って行きようは自分で何とかして、募金なりするべしと思い至る。
一方で、悲惨な状況もしっかり見つめて、今起きていることから私は、私たちは、何を学ぶのかという気持ちもある。ツライ気持ちが大きければ大きい程、必死にもがいて考えるはず。

命を失った人、今、命を脅かされている人がいる。
事故で母を亡くし、癌で姉を亡くした私は、その1人1人の命の重さに数字を見るだけで苦しくなる。
自分で意識して、情報と感情の間にフィルターを数枚置こうとしている。
昔から私は弱者や悲劇の人に感情移入しすぎる傾向があるのだ。
心が、「見つめること」と「流されないこと」のいいバランスの地点を見つけようとしている。

Twitterを始めて気がついたことについて、こんな時、やっぱり、と思う。
このメディアは私に向いている。だからハマる。
世の中にはTwitterもFacebookもPCを大して見ないひとだって、沢山いる。
でも、私にはそういうものが好きだし、向いている。
それは、文字を読むことを気持ちいいと思うという性質。「活字中毒」という言葉があたるのかな。
その対極になるのが、「難読症」と言うんだろうか、「1Q84」にも描かれていたが、知性に問題があるわけでもなく話すことも出来るのだが、「文字を読む」ことが困難な人がいる。
「活字中毒」と「難読症」の間にいろいろな段階があるだろうけど、私は相当「活字中毒」よりだと思う。
そして、それが私の強みでもある。
文字で書かれた情報を読むのが比較的早い。

本やネットを始め活字を読んで情報なりを得ることは世間では一般的に「良いこと」とされている。
世の中の仕事(特に事務仕事)は文字を読み理解することが求められる。
そうして生きてきて、語学で飯を食っていくことにもなり、年齢を重ねて、気がつくと
自分の弱さを、この強さで補おうとしている。自然なことなのだろう。
(弱さの中味はいずれ語れるかな・・・。)

とにかく、パソコンやインターネットが普及して、
阪神淡路大震災の時と違って、テレビや新聞以外から情報がすごい勢いで入ってくるし、
自分から主体的に調べることも可能だ。
それは純粋にありがたいことだと思う。

最後に、今回いろんな形でショックを受けている方に少しでも役立てないかと思い、私が家族を亡くして知った「グリーフワーク」を紹介しておきたい。
身近な人を亡くした際に、「悲しみのプロセス」がどういう経過をたどるか、ということである。
悲しみのあり方やどれだけの期間がかかるかなど、100人100様だと言われているが、人の精神状態がこのようなプロセスを経ていくのは自然なことだと知っているだけでも、違うのではと思う。私の場合はそうだった。
それから、人を亡くした場合だけでなく、自宅など大切なモノを失った場合でも同様のプロセスがあると私は思う。
詳細はリンクを参照していただきたい。

ショックの段階→ 怒りの段階 → 抑うつの段階 → 立ち直りの段階

2011年3月 9日 (水)

映画の感想 (グラン・トリノ、プラダを着た悪魔、AIKI、MW)

「映画ええがな」というタイトルが浮かんだが、採用はせず。
ググってみたら、ブログタイトルがぱらぱらっと並んでいる。やっぱりね。
誰でも考えるっちゅうねん。

2月末に楽天レンタルで10円と50円のDVDスポットレンタルのキャンペーンをやっていたので、初めて借りてみた。送料込みで4枚で420円。TSUTAYAの100円キャンペーンとコストは同じということになる。
石橋凌氏(私の心の師匠)出演の日本映画を見たくてずっと探してたんだけど、近所のTSUTAYAに置いてないからこれはいい機会。
返却は郵便ポストに投函すればいいし、便利だと思う。
ただ、レンタル期間が10日ということだけど、返却先の埼玉に「必着」と書いてある。ゆうびんHPで確認したところ前日の午前中投函がぎりぎりの期限。ちょっと心配した。
なんだかんだと忙しかったので4枚も見る時間を確保するのが大変だった。

さて、感想。
4本を好きな順で書いてみる。

グラン・トリノ

クリント・イーストウッド演じる、妻を亡くした頑固な老人と少年の話。
私、これ、めっちゃ好き!静かな映画だけど、心をがしっと掴まれた。
頑固者で息子家族にも疎まれてる老人が主人公なのに、最初の数分でめっちゃ共感モードに。
愛する者は先立ち、周りの人間は無遠慮で無神経、自分の城(自宅)を自分の手でメンテナンスし、守って静かに暮らしているけど、孤独。そんな時、世代も文化も異なるアジア系の少年と出会い、不思議な絆が生まれる。
イタリア人の床屋のシーンがすごく気に入った。
全編通して説明っぽい感じがしなくて、手触りの感触が残るような演出だと思う。
失われゆくモノと継いでゆくモノ。

プラダを着た悪魔

見終わっての私の第一声。「女版24(Twenty-four)やん」。
無理難関を優秀なスキルで次々と突破していく痛快さ。しかしふと気づく。「なぜここまで自分を犠牲にしているのか。」
編集の仕事に就きたい女性アンドレアがトップファンッション雑誌の編集長の秘書に雇われるんだけど本人はファッションに興味なし。上司である鬼編集長は仕事に厳しく超ハイレベルの能力が求められる。生き残れるのか、辞めるのか、という話。
私は貧乏性だからファッションにお金かけないけど、美しいファッションを見るのは好き。
それに仕事をバリバリこなすのを見るのも好き。気持ちいい。メリル・ストリープ圧巻。「The Mentalist」のパトリック・ジェーンが色男役のはまり役で出演。セクシー!

AIKI
下半身不随になった少年が合気柔術に入門する話。
合気柔術の師匠役の石橋凌さんがすっごく穏和な笑顔でとっても素敵。ああ、弟子になりたい。
主役の加藤晴彦君も好演。
実在する男性の実話を元にしてるんだけど、その事が冒頭に出てなかった。確か。
私が見逃したのか?でないとしたら絶対それ冒頭で出すべきだったと思う。
エンディングも、オープニングに持ってきたらもっと引き込まれたんじゃないかな。
特典メイキング映像がすごく面白かった。

MW
手塚治虫センセイの問題作を映画化。
原作を図書館で借りて読んでから映画を見たので、私としては、「映画が原作を超えるのは難しい」ということになったけど、主役に玉木宏というキャスティングはドンぴしゃだと思う。立ち姿が美しい、いや、何をやっても絵になる俳優さん。
刑事役の石橋凌さんは、しぶい!存在感どっしり。「It's a fake!」っていう英語の台詞がロックしてた。
ストーリーと演出は、原作から映画に持って来れないモノが多いなと思う。でもセクシャルな部分を「匂わす」だけでも違うと思うんだけど、映画には一切出てこなかったのが残念。肝心要の愛と欲のどろどろ具合が出せたはずだと思うんだけどな。それと、山田孝之くん演じる準主役の賀来という神父の視点で、主人公のキャラを眺めて、観客にもっと想像させるとより良かったんじゃないかな。
ちょっと辛口に書いてしまったけど、MWという映画を生んだことによって、原作を手にする人も確実に増えるだろうし、その意義は大きい。手塚センセイに向かって合掌。
私は小学生の時に自分で買った手塚治虫百科という本を今でも持っている。

2011年3月 1日 (火)

戻る実家はない No parents' home to go back

今日のエントリーは書くのに決意が要る内容になりました。

3月!でも今日は雨で肌寒い。春が待ち遠しい。

前回のエントリーで、うちのダンナを褒めているかのような印象になってないかと
気になってきた。
あくまでも、私が当たり前だと思ってたことが周りではそうじゃなかったんだという驚きを表現したかったんだけど。
ウチら夫婦は漫才師の相方同士みたいな感じと言うか、
子供がいない時は、なるべく別行動する。

先日、「金曜日のキセキ」というテレビ番組で、梅宮アンナと室井佑月が子供が生まれてから離婚した、という話をしていて、「うん、せや、せや」とうなづいていた私。
初めての妊娠・出産に際し、それまで100%のエネルギー使って仕事や家事をこなし、
ダンナにも気を遣って生きてきて、いざ自分が人生で初めて経験する不安、痛みに耐えて、つらくてダンナに頼りたいな、と思った時に、
自分が思うようには頼りにならないと解って離婚を決意した、というような話。
梅宮アンナは、出産したその日に離婚を決めた、
妊娠中に期待したサポートをダンナから受けられなかった、とのこと。

男性は、初めて父になる不安からか、母親代わりにしてきた妻が甘えさせてくれないからか、夫という役割(もしくはアイデンティティ)から、父という役割へとうまく移行するのが難しい人がいるのかも。
女性は自分の体内に命が宿って、体がどんどん変わるし、体内&脳内ホルモンが劇的に変化して、荒波に飲み込まれるように変身を遂げるんだと思う。OSが変わる感じ。
男性の実情はよく分からないけど、赤ちゃんが実際に出てきて、自分のそばにいる状態になるまでホントの実感はわかないのかも。
仕事に出かけて忙しくしてる最中なんか尚更よねー。
それはしょうがないと思う。
現代では核家族化して、夫婦1対1の関係が強くて、
役割の変化を促してくれるような、近くにいて関わってくれる人も少ないし。

私も一時離婚を考えたことがあるが、(考えたことがない人っているのか)
梅宮さん達との決定的な違いがあるなと思わされた。
それは、戻る実家がないことだ。
出産直後には、腰痛もひどくフルタイムで仕事をすることもつらかったし。
つまり、完全に頼れる社会的コネクションが無い上に、
仕事しなくても生活できるような経済的余裕もなかったということ。

私の母は私が15歳(高校1年)の時に交通事故がもとで他界した。
私が中3の時の5月のある夜、車に跳ねられて5メートルはふっとんだらしい。
生死の境をさまよい一命はとりとめたが、脳に損傷もあり、
ベッドから一度も起き上がることも声を発することもないまま、1年と4ヶ月が経ち、
最後は肺炎にかかって死んだ。

母が事故に遭ったその時、私と姉と妹は、母親と4人家族だった。
父親は私が小学1年の時に、離婚して、ほとんど会うことも、手紙をもらうこともなかった。
元々家にいる時間が少ない人だったと記憶している。
だから、離婚前の父親のエピソードで覚えていることも数えるほどしかないし、
父というその人がいなくて寂しいとか会いたいとか感じたことはなかった。
仕事の借金を母親を保証人にして肩代わりさせたと聞いた。

ところが、母親がいつ死ぬかもわからない状態になって、
母方の祖父が、母を看病・世話する為には、祖父自身の自宅の近くの病院に移転させる必要がある、私と妹は父親と生活するように、と決めた。
(私たちが住んでいた高知市内から祖父の家までは車で3時間も離れていた。)

父も同意してのことだったのだろう。
大学に入学したばかりだった姉は、卒業までは寮に入って通えということだった。
幼かった私や妹の意見は一度も聞かれなかった。
姉は、大学を止めて働くから姉妹3人で暮らしたいと祖父に訴えたが、
せっかく入った大学はちゃんと卒業しなさいと聞き入れられなかったそうだ。
姉がその時私達を父の元に行かせたことを後悔したというその話は、
癌にかかった姉から死の直前に聞いた。
まあ、主席で合格し、入学式で入学生代表の辞を述べたぐらい頭のいい姉だったから、
大学を辞めさせるのは惜しいということもあったのだろう。

とにかく、私と妹は私が15歳からの7年間、父と暮らさなければならなかったが、
彼は「親業」の向かない人であった。
ほぼ毎晩、飲んでベロベロに酔って深夜に帰宅していたが、顔を合わせなくて済んでよかったと思っている。
非常に頭のいい人で本の虫だったが、仕事でもいろいろ問題があったようだ。
建築関係の仕事をしていたが、うまく行かなくて姿をくらましたりしていた。
私が大学4年の時、大学が移転したのを口実に、
私は妹と家を出ることを決めた。
家事も15歳からほぼ全部私がやっていたし、経済的な問題も感じなかった。
父が生活費と言って私に渡してくれるのは毎月ではなかった。

今思えば、たった一人の親だと思っていた母親を失った
深い悲しみとつらさのまっただ中、
親だと感じられない父親の尊敬できない面と、
子供に対する愛情があるとは思えない日々のふるまいを直視することは
傷に塩を塗り込むような、むごい出来事だったと思う。
「あんな人間にだけはならない」と意志を強くもてたということはプラスに作用はしたが。

その後もいろいろあったが、現在、父親とは絶縁状態である。
しかし、大学4年の時に別々に住むようになってから、
父親から電話してきたりするようなことはほとんどなかった。
こちらから連絡しなければ、疎遠になるというタイプの人、というだけのこととも言える。

私は、あるきっかけで発達障害のことを知り、沢山の本を読んで勉強した。
今では、父はアスペルガー症候群だろうと推測している。
「なぜ、こんなアンバランスな大人とも思えないような人なのか」という謎が解けたきがしている。
父方の祖父母は90歳を超えて長生きしたが、
父のことで苦労したことだろうと想像する。
今でこそ、子供から大人まで、情報や支援を受ける社会的な状況は整いつつあるが、
父が生まれ育った時代にはそんなコンセプトは存在もしなかった。
私は、今この時代に生きて、知るということが可能であることに
深く感謝している。

それはそうと、私に戻る実家がもうずいぶん長い間ないことは変わることない事実だ。
今の私は、少しでも長生きして、自分の息子が成長して家を出たあとも、
戻れる実家を維持することが、生きる目標の1つになった。

ブログを書いていて、私の中の吐き出さなければ先に進めない「何か」が
やっと生み出せそうになっている。
今日の話はその第一段階だと思う。
Twitterを始めて、毎日、たくさんのテキストに乗った色んな人の思いに触れて、
背中を押されたというか、私の中で何かが沸き立つようになったのだ。
不思議なものである。

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