ブログ村ランキング↓クリックで投票してね♪(1日1回有効)

facebook いいね!

  • facebook いいね!

my twitter

  • my twitter

related items

my bookshelf

  • ブクログ

« 子育てが大変とはどういうことか | トップページ | 映画の感想 (グラン・トリノ、プラダを着た悪魔、AIKI、MW) »

2011年3月 1日 (火)

戻る実家はない No parents' home to go back

今日のエントリーは書くのに決意が要る内容になりました。

3月!でも今日は雨で肌寒い。春が待ち遠しい。

前回のエントリーで、うちのダンナを褒めているかのような印象になってないかと
気になってきた。
あくまでも、私が当たり前だと思ってたことが周りではそうじゃなかったんだという驚きを表現したかったんだけど。
ウチら夫婦は漫才師の相方同士みたいな感じと言うか、
子供がいない時は、なるべく別行動する。

先日、「金曜日のキセキ」というテレビ番組で、梅宮アンナと室井佑月が子供が生まれてから離婚した、という話をしていて、「うん、せや、せや」とうなづいていた私。
初めての妊娠・出産に際し、それまで100%のエネルギー使って仕事や家事をこなし、
ダンナにも気を遣って生きてきて、いざ自分が人生で初めて経験する不安、痛みに耐えて、つらくてダンナに頼りたいな、と思った時に、
自分が思うようには頼りにならないと解って離婚を決意した、というような話。
梅宮アンナは、出産したその日に離婚を決めた、
妊娠中に期待したサポートをダンナから受けられなかった、とのこと。

男性は、初めて父になる不安からか、母親代わりにしてきた妻が甘えさせてくれないからか、夫という役割(もしくはアイデンティティ)から、父という役割へとうまく移行するのが難しい人がいるのかも。
女性は自分の体内に命が宿って、体がどんどん変わるし、体内&脳内ホルモンが劇的に変化して、荒波に飲み込まれるように変身を遂げるんだと思う。OSが変わる感じ。
男性の実情はよく分からないけど、赤ちゃんが実際に出てきて、自分のそばにいる状態になるまでホントの実感はわかないのかも。
仕事に出かけて忙しくしてる最中なんか尚更よねー。
それはしょうがないと思う。
現代では核家族化して、夫婦1対1の関係が強くて、
役割の変化を促してくれるような、近くにいて関わってくれる人も少ないし。

私も一時離婚を考えたことがあるが、(考えたことがない人っているのか)
梅宮さん達との決定的な違いがあるなと思わされた。
それは、戻る実家がないことだ。
出産直後には、腰痛もひどくフルタイムで仕事をすることもつらかったし。
つまり、完全に頼れる社会的コネクションが無い上に、
仕事しなくても生活できるような経済的余裕もなかったということ。

私の母は私が15歳(高校1年)の時に交通事故がもとで他界した。
私が中3の時の5月のある夜、車に跳ねられて5メートルはふっとんだらしい。
生死の境をさまよい一命はとりとめたが、脳に損傷もあり、
ベッドから一度も起き上がることも声を発することもないまま、1年と4ヶ月が経ち、
最後は肺炎にかかって死んだ。

母が事故に遭ったその時、私と姉と妹は、母親と4人家族だった。
父親は私が小学1年の時に、離婚して、ほとんど会うことも、手紙をもらうこともなかった。
元々家にいる時間が少ない人だったと記憶している。
だから、離婚前の父親のエピソードで覚えていることも数えるほどしかないし、
父というその人がいなくて寂しいとか会いたいとか感じたことはなかった。
仕事の借金を母親を保証人にして肩代わりさせたと聞いた。

ところが、母親がいつ死ぬかもわからない状態になって、
母方の祖父が、母を看病・世話する為には、祖父自身の自宅の近くの病院に移転させる必要がある、私と妹は父親と生活するように、と決めた。
(私たちが住んでいた高知市内から祖父の家までは車で3時間も離れていた。)

父も同意してのことだったのだろう。
大学に入学したばかりだった姉は、卒業までは寮に入って通えということだった。
幼かった私や妹の意見は一度も聞かれなかった。
姉は、大学を止めて働くから姉妹3人で暮らしたいと祖父に訴えたが、
せっかく入った大学はちゃんと卒業しなさいと聞き入れられなかったそうだ。
姉がその時私達を父の元に行かせたことを後悔したというその話は、
癌にかかった姉から死の直前に聞いた。
まあ、主席で合格し、入学式で入学生代表の辞を述べたぐらい頭のいい姉だったから、
大学を辞めさせるのは惜しいということもあったのだろう。

とにかく、私と妹は私が15歳からの7年間、父と暮らさなければならなかったが、
彼は「親業」の向かない人であった。
ほぼ毎晩、飲んでベロベロに酔って深夜に帰宅していたが、顔を合わせなくて済んでよかったと思っている。
非常に頭のいい人で本の虫だったが、仕事でもいろいろ問題があったようだ。
建築関係の仕事をしていたが、うまく行かなくて姿をくらましたりしていた。
私が大学4年の時、大学が移転したのを口実に、
私は妹と家を出ることを決めた。
家事も15歳からほぼ全部私がやっていたし、経済的な問題も感じなかった。
父が生活費と言って私に渡してくれるのは毎月ではなかった。

今思えば、たった一人の親だと思っていた母親を失った
深い悲しみとつらさのまっただ中、
親だと感じられない父親の尊敬できない面と、
子供に対する愛情があるとは思えない日々のふるまいを直視することは
傷に塩を塗り込むような、むごい出来事だったと思う。
「あんな人間にだけはならない」と意志を強くもてたということはプラスに作用はしたが。

その後もいろいろあったが、現在、父親とは絶縁状態である。
しかし、大学4年の時に別々に住むようになってから、
父親から電話してきたりするようなことはほとんどなかった。
こちらから連絡しなければ、疎遠になるというタイプの人、というだけのこととも言える。

私は、あるきっかけで発達障害のことを知り、沢山の本を読んで勉強した。
今では、父はアスペルガー症候群だろうと推測している。
「なぜ、こんなアンバランスな大人とも思えないような人なのか」という謎が解けたきがしている。
父方の祖父母は90歳を超えて長生きしたが、
父のことで苦労したことだろうと想像する。
今でこそ、子供から大人まで、情報や支援を受ける社会的な状況は整いつつあるが、
父が生まれ育った時代にはそんなコンセプトは存在もしなかった。
私は、今この時代に生きて、知るということが可能であることに
深く感謝している。

それはそうと、私に戻る実家がもうずいぶん長い間ないことは変わることない事実だ。
今の私は、少しでも長生きして、自分の息子が成長して家を出たあとも、
戻れる実家を維持することが、生きる目標の1つになった。

ブログを書いていて、私の中の吐き出さなければ先に進めない「何か」が
やっと生み出せそうになっている。
今日の話はその第一段階だと思う。
Twitterを始めて、毎日、たくさんのテキストに乗った色んな人の思いに触れて、
背中を押されたというか、私の中で何かが沸き立つようになったのだ。
不思議なものである。

« 子育てが大変とはどういうことか | トップページ | 映画の感想 (グラン・トリノ、プラダを着た悪魔、AIKI、MW) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

私も頼る親はいません。私の場合、この世にいません。
だから、主人と娘と3人だし、出てっても帰る家はここしかない。
ちなみに高校のとき、裏でこんな不幸やってるのは私だけやろなって思ってたひねくれ者です。
だからこそ、娘の帰る家でありたい、
頼れる存在でい続けたいと、誓って生きてます。

ブログ読ませてもらいました。
大変やったのね。お互い高校時代は知らなかったね。
母としての強い誓い、力いっぱい同感です。

一方で、昔は、親以外の家でも準実家的に居候とか書生とか転がり込むとか、敷居がもっと低かったと思うのです。核家族化&中途半端な個人主義が、そういう文化を見えなくしてしまったのかなぁ。

そう言えば、親とケンカして家を出て、しばらくスーパー銭湯に泊まってた友達がいたけど、子連れでも可能かなぁ?
(^_^;)

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1409259/39061027

この記事へのトラックバック一覧です: 戻る実家はない No parents' home to go back :

» 離婚を同意してくれない [女性のあなたが幸せを掴む為の離婚の方法「離婚のバイブル」 ]
結婚と離婚を知り尽くしたコンサルタントが教える幸せを掴む為の方法 [続きを読む]

« 子育てが大変とはどういうことか | トップページ | 映画の感想 (グラン・トリノ、プラダを着た悪魔、AIKI、MW) »

2018年8月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

Links